第二章 交流
19
大水が追いかけてくる。口を開けて荒く息を吐きながら、るうは階段を駆け上がっていく。
「るう!」
聞こえないはずの瑞樹の声が聞こえた。上階への出口が見えた。最後の一段を強く踏み込み、鏡の扉へと飛びつく。がちゃがちゃと取っ手を回し、身を投げ出すように押し開いた。
「るう! ――おい!」
力強い二本の腕が、るうの体を受け止めた。瑞樹だ。
「うわっ、なんだよ、お前びしょぬれじゃん! 何があったんだ?」
「み、みーちゃん……」
るうは、がばりと身を起こした。
「と、トカゲは?!」
「は? トカゲ?」
「あのね、トカゲがね、ちっちゃかったのがびっくりして、あたし大きくなっていって……」
「待て待て、落ち着けよ、るう」
瑞樹がるうの両肩に手を置いた。
「だってえ、トカゲが……あたし、トカゲ嫌いなの、駄目なの」
「いや、それは分かったから……トカゲってこれのことか?」
くっついてるぞ、と瑞樹がつまみ上げたのは、幾分小さくなったあのトカゲだった。
「きゃあああ!!」
「うっ、もうちょっとボリューム下げて。こんなちっちゃいのの何がそんなに怖いんだよ」
「魔物だよみーちゃん、触っちゃ駄目!」
思わず、トカゲを持つ瑞樹の腕にすがりついた。またいつ大きくなるのかも分からない。
と、そこに椿の冷静な声が割り込んだ。
「吹雪、説明しろ。一体何があった?」
「つ、椿ちゃん……」
椿は真っ直ぐにるうを見つめていた。るうを身動きできなくするあの視線だ。
その途端、るうの目に涙が滲んだ。さすがの椿も、これには顔色を変えた。
「おい、吹雪?」
「ご、ごめんね、なんかほっとしちゃって……」
その言葉を聞いて、椿が瑞樹を見る。瑞樹は肩を竦めた。
「そんな怖い顔で睨まれてもね。……るう、さっきの白い光、何だったか分かるか?」
瑞樹の手が背中を撫でているのを感じ、るうは涙を拭った。
「う、うん。あのね、この手鏡が急に光ってトカゲを照らしたの。そのトカゲ、その時はもっと大きかったんだけど……」
緑色の手鏡を、二人の前に差し出す。瑞樹は首を捻った。
「これが光ったのか? 光を出す武器?」
「分かんない。あのときは必死だったから……」
「じゃあ、水の音は? 結構響いてたけど」
「天井から降ってきたの。雨みたいに。水がどんどん溜まっていって、溺れちゃうかと思った」
地下室が真っ暗になったときのことを思い出して、肩を震わせた。
見せてみろ、と椿が手鏡を手に取る。鏡面を指先でなぞったり、引っくり返したりして隅々まで調べてから、手鏡をるうに返して、「それは『照魔鏡』だな」と言った。
「照魔鏡?」
「魔物の正体を暴く鏡だ。魔物を映すと、その力を払い清める。道具系の魔法士が使う道具の中では、有名なものだ」
「だからあんなに大きくなってたトカゲが、こんなちっちゃくなっちゃったんだ?」
瑞樹が捕まえているトカゲは、見た目は普通のトカゲと何ら変わりない。照魔鏡に照らされたことで弱っているのだ。
ほっとしたるうとは対照的に、椿は難しい表情で腕を組んだ。
「しかし、どうして魔物がこんなところにいるのか……」
資料保管庫に保管されるのは、主に魔窟から採集された鉱石や植物だ。魔物は、また別の施設の管轄になる。
「一体何をしているのですか?」
そこへ、三つの扉の前から動こうとしない三人を急かしに、小林魔導師がやってきた。
「標本を見つけたのなら、すぐにわたくしに提出してください。他の生徒の邪魔になります」
「せんせー、とりあえずこれ、見てくださいよ」
瑞樹が左手でトカゲを、右手で照魔鏡を持ったるうの肩を抱いて、小林魔導師の目前へ押し出した。
小林魔導師は鋭い目つきで両者を見比べると、ぐっと眉間に力を入れて尋ねた。
「このトカゲは、職員室で預かっていた魔物です。それがどうしてあなたがたのところに?」
「別に、私らが盗んだわけじゃないですよ」
「そ、そうです。そのトカゲは地下室にいたんです。あたしが驚いて水をかけたら、急に大きくなって……それで、そしたら鏡が光ったり、雨が降ったりしてきて……」
小林魔導師は、るうに向かって言った。
「吹雪さん。あなたがその手鏡を使ったのですか」
「ええっと、使ったっていうか、勝手に光ったっていうか……」
「そのトカゲは暗いところと湿気を好み、水を吸うことで巨大化する種です。照魔鏡を使ったのはよい判断でした。このような魔物は光や火に弱いものですから」
あの小林魔導師に褒められて、るうは頬を赤くした。けれど、すぐに嬉しい気持ちはしぼんでいった。小林魔導師が「それでは、標本を提出していただきたいのですが、」と催促したからだった。
瑞樹と椿はそれぞれ、木の根っこと丸箱に入った青金石を差し出した。
「霧島さんも佐久良さんも合格です。正しい標本を持ち帰ってきましたね。吹雪さんは……」
「うう……それどころじゃなかったです……」
「……まあ、いいでしょう」
溜息を吐く。
「魔物の件は、わたくしたち魔導師の不手際です。吹雪さんも合格ということにいたしましょう」
「ほんとですか? やったあ!」
「よっしゃ、ラッキー!」
るうと瑞樹は声を上げて喜んだ。
「椿ちゃん、あたしも合格だって。次のチェックポイントに行けるね!」
「……ふん」
椿は目を逸らした。
また、小林魔導師はるうに赤い小石を手渡した。ぎゅっと握りしめると、びしょぬれだった体と服が温められていった。
「わあ、すごい。もう乾いちゃった」
「沸石という、魔窟の石です。この資料保管庫には、様々な警護の魔法が仕掛けられていますから。地下室の雨はその一つでしょう」
「ありがとうございます、先生」
にこにこしながら礼を言ったるうに、小林魔導師は珍しく穏やかな視線を注いだ。
「吹雪さん。あなたはどうやら、道具系の魔力傾向をお持ちのようですね」
「え? あたしが……?」
「照魔鏡を使えたのですから、十分に素質はあるとわたくしは思います。勿論、今後変わってくる可能性もありますが」
るうは、ぽかんと口を開けてその言葉を聞いていた。
信じられない。
「よかったな、すごいじゃん、るう!」
「う、うん。ありがとう、みーちゃん」
あたしにも、魔法が使えるんだ。
上の空で瑞樹に返事をすると、自分の両手を見下ろし、るうはもう一度信じられない、と呟いた。