第一章 入学

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 武道館はこれまで見てきた講義棟や大講堂と違って、障子や瓦が使われた落ち着きのある建物だった。  

 その一階では、剣道部の部員たちがそれぞれ練習に励んでいる。竹刀と竹刀がぶつかり合う音、磨かれた板間を裸足の部員が強く踏み込む音。瑞樹には馴染みの雰囲気だ。ためらうことなく、剣道部と書かれた看板を通り過ぎ、がらりと勢いよく引き戸を開ける。

「頼もー!」

 意表を突かれた部員たちが、練習の手を止めて大声の主を振り返る。

「み、みーちゃん、駄目だよ、そんないきなり……」

 慌ててるうが瑞樹の制服の袖を引っ張った。マスムラは悠々と武道館の中を見渡している。

「一年の霧島っていいます。剣道部の見学に来たんですけど、入ってもいいですかあ?」

 部員は二十人程いるだろうか。面と防具を身に着けているため顔はよく見えない。その中の一人が瑞樹の目の前に立った。

「……霧島だって?」

「霧島瑞樹っす。あの、部長さんとかいらっしゃいます?」

「――何がいらっしゃいますだ、このゴリラ女が!」

 そう怒鳴ると同時に、その部員は竹刀を振り上げて瑞樹に鋭く打ちかかった。

 

 

「みーちゃん、危ないっ!」

 驚いたるうが叫ぶ。すんでのところで竹刀を避けた瑞樹は、部員に負けじと大声を張り上げた。

「いきなり何すんだ、あぶないだろ!」

「やかましい! 勝負だ!」

 相手は何故かかんかんに怒っているようで、竹刀を構えたまま引こうとしない。

 何なんだこいつ、と睨み返した瑞樹だったが、部員と目が合うと瞬時に顔色を変えた。

「……げっ、何でお前がこの学園にいるんだよ! 新田!」

「こっちのセリフだ霧島ァ……ここで会ったが百年目!」

 新田と呼ばれた部員は、そう言ってもう一度打ち込もうとした。しかし、瑞樹も黙ってやられてはいない。新田の竹刀を右腕で受け止めると、その勢いを利用して素早く叩き落とす。

「はい終了。ほんと相変わらず血の気の多い奴だな」

「うるせえよ、この馬鹿力!」

 新田は竹刀を拾うと、再び打ちかかった。それを避けた瑞樹はにやりと笑う。

「……よーし、覚悟できてんだな?」

 どちらかといえば、瑞樹も喧嘩早いほうなのだ。実家で叩き込まれた剣術もある。

「どうしようマッスー。と、止めたほうがいいよね?」

 るうは引き戸に半分身を隠すようにして武道館の中を覗いていた。

 瑞樹たちは怒鳴り合いながら道場をどたばた動き回る。他の剣道部員たちは困った様子で成行きを見守っていた。マスムラはそちらに近づくと一礼した。

「どうもご迷惑おかけいたします。一年のマスムラです、どうぞよろしく」

 そしてにこにこ笑いながら一方的にしゃべり始めた。

「ほんとすみません、友人が勝手をしてしまいまして。彼女、実家が剣術道場なので強いんですよ。まあ今回みたいなのは、初めてというわけではないと思いますね。いえ、これはただの予想ですけれど。そうそう、一応お聞きしますが、新田といいますと一年生の新田俊成君のことでしょうかね?」

「あ、ああ、そうだけど」

 部員の一人が頷く。

「霧島さんとは顔見知りみたいですねえ。新田君は剣道部の部員ですか?」

「いや、まだ仮入部だよ。本入部は一週間経たないと受理できないから」

「ふーん、そうなんですねえ。強いんですか? 彼」

「見ての通りだと思うけど……」

 るうはどうにかして近付けないかと、二人をずっと目で追っていたが、なかなかそのきっかけはやってこない。新田の攻撃が瑞樹に当たりそうになる度、心臓が妙な跳ね方をする。

 マスムラは面白そうに眺めるだけで、喧嘩を止める様子はない。なら、あたしが……。

 そう思って一歩前に出ようとしたとき、背後から男子生徒の声が聞こえてきた。  

「――俊成はまたやっているのか……飽きない奴め」

 聞き覚えがあった。るうはそっと顔を動かした。

 そこには、入学式で新入生代表の挨拶を務めていたあの男子生徒が立っていた。

 ――ええと、確かマッスーは雑賀ユキとか言っていたっけ……。

 雑賀は神経質そうな表情を浮かべると、傍にいた男子生徒の名前を呼んだ。

「カズマ。お前、止めてこい」

「またか。……おいトシ、熱くなるな。迎えに来たぞ」

 切れ長の目を細め、カズマはすいすいと道場の中を進んで新田に声をかけた。しかし、新田や瑞樹の大声に掻き消されてしまう。  

 すると、カズマは新田の膝の裏側に向けて蹴りを放つという、少々荒っぽい奇襲を仕掛けた。

 

 

「いっ……てえ!!」

 新田が防具の格好で盛大に尻餅をつく。息を弾ませてカズマを見上げた。

「何すんだよ、カズマ! 危ないだろ!」

「危ないのはお前だよ。竹刀振り回して何してる。剣道部の先輩が困ってるだろ」

 カズマは爪先で新田の背中を突いた。

「さっさと行くぞ。ユキがお待ちかねだ」

 新田は入り口で腕組みをしている雑賀にちらりと目をやった。

「くっそー。おい霧島、これで勝ったと思うなよ」

 立ち上がり、竹刀の先を瑞樹に突きつける。

「道場の娘だろうが何だろうが、俺のほうが絶対強いってことを証明してやる。次の勝負、逃げんなよ。本気で来い」

「あーもー、うるせーなあ。高校に来てまでお前の顔とか見たくないんだけど。何なの? お前、まさか私のこと追いかけてここ受験したの?」

「……誰がするかそんなこと! ふざけてんじゃねーぞ!」

 途端にむきになる新田をカズマが押しとどめ、更衣室まで引きずって行った。その間も新田はぎゃんぎゃん騒いでいたが、ついに更衣室に放り込まれ、扉が閉まると道場は急に静かになった。

「ったく、あいつは……」

 瑞樹が渋面を作って舌打ちする。駆け寄ったるうはハンカチを差し出した。

「汗すごいよみーちゃん。これ使って」

「お、悪いな、るう。洗って返す」

 ハンカチを受け取ると、暑い、と言ってシャツのボタンをいくつか外した。

「あの新田って人、みーちゃんの知り合いなの? すごい人だね」

「知り合いというか……うちの剣術道場の門徒だよ。小さい頃から父ちゃんに習いに来てた。どこの高校に行ったのかと思ってたけど、まさか同じ学園とはね」

 苦々しげに呟く。新田とは長い付き合いだが、顔を合わせる度に勝負を挑まれるのは正直面倒だった。

「そっか、だから新田君あんなに強いんだ。じゃあ、みーちゃんとは幼馴染なんだね」

「まあ一応な。でもるう、あいつはやめとけよ」

「やめとけって?」

 るうの目を真っ直ぐに見下ろして、瑞樹はわざと大げさに眉根を寄せた。

「竹刀持ってるときは強そうに見えても、そうじゃないときのあいつ、ひどいぞ。特にるうみたいな女子に対しては小学生みたいな絡み方しかできないし」

「そ、そんなんじゃないよ! もう!」

「どうだかなあ。るうってなんか変な男に引っかかりそうだからなー」

 瑞樹がにやつくのをやめさせようと、るうはその背中をぽこぽこ叩いたが効き目はない。  マスムラが、お疲れさまでしたあ、と瑞樹に声をかけた。

「おう、マッスーも聞き込みお疲れ。それで? やっぱ新田のやつ、ここの部員だった?」

「仮入部みたいですよ。本入部は一週間先ですって」

「あいつ、するだろうなあ、本入部」

 ぼやく瑞樹に、マスムラが手帳を振ってみせる。

「どういう繋がりなんですか、新田俊成と。あれですか、剣道におけるライバルとか?」

「ただの腐れ縁。あーあ、私も剣道部入ろうかなあなんて考えてたけど、あいつとまた一緒になるのはなあ。るう、お前入ってみる?」

「入りません!」

 るうは頬をふくらませた。

「まあその前に、剣道部にも選ぶ権利というものがありますからねえ」

 マスムラが一歩下がり、代わりに背の高い部員が瑞樹の前に出た。

「どうですか、部長さん。彼女、見ていた通り中々強いんじゃありません?」

「強かろうが弱かろうが……」

 部長は苦虫を噛み潰したような顔で瑞樹を見下ろした。

「周りへの迷惑も考えず、どたばたと暴れ回る奴はうちの部にはいらん」

「どうもすみませんでした……」

 さすがの瑞樹も素直に頭を下げた。

「うちの道場の掃除をしていけ。床磨きだ。モップなんぞ使わせんぞ、雑巾で全部拭くんだ」

「え……えー?! ここ全部?」

 呆然と瑞樹は道場を見回した。何十人といる部員が思い切り練習に打ち込める広さだ。一人では相当きつい。

「そ、それじゃあ新田は? 新田もやるべきですよね、雑巾がけ!」

「当然だ。二人だけでやっておけよ」

 暗にるうとマスムラに手伝うな、と重圧をかけている部長の言葉を聞くや否や、瑞樹は更衣室へ走り出していた。

「あっ、みーちゃんそっちは……」

 るうが止める前に、「うわ馬鹿入ってくんじゃねーよ!!」と男子更衣室から悲鳴が上がった。

 

            

(新田俊成:にったとしなり、雑賀ユキ:さいがゆき)

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