第一章 入学

06

 

『霧島瑞樹様、小林魔導師がお呼びです。至急、職員室までお願いいたします』

 ふわふわと宙に浮かんだ人工妖精が、今まさに花車の部屋を出ようとしていた瑞樹に知らせを持ってきた。うげ、と苦い声を出した瑞樹はるうを振り返る。それでるうもぴんときた。

「昼間の新田君とのことかなあ? 先生にまで伝わっちゃったんだね」

「授業すら始まってないのに、もう呼び出しかよ。気の早い先生だな。悪い、先に風呂行っててくれ」

 瑞樹は肩を竦めると、着替えを小脇に挟んだまま人工妖精について行った。るうはその背中を見送ったあと、部屋の鍵を閉めて一階に下りた。そして大浴場に足を向けたとき、目の端で見覚えのある黒髪が翻ったのを見た。

「あ……」 

 椿だ。 

 急いでその黒髪のあとを追って学習室へと入った。何人かの生徒がぽつりぽつり席を埋めていたが、物音一つしない。一番奥の席に椿は座っていた。衝立がその周りを囲っている。

「あ、あの……椿ちゃん」

 るうは着替えの入った手提げ袋を胸元に押し付けながら、そっと椿に声をかけた。振り返った椿と目を合わせたとき、るうの心臓は一際大きく高鳴った。

「何か私に用か、吹雪」

 るうの様子を訝しげに見つめながら椿が言った。

「え、ええっと、あの、さっきね、椿ちゃんがここに入っていくのが見えたから……た、たまたまだよ? もしかして、明日のテストのお勉強かなって……あ、椿ちゃん、すごく頭いいんでしょ。マッスーから聞いたんだけど……」

 うまく説明しようとすると、るうの口はどんどん回らなくなる。いつもこうだ。もっときちんと話せないものかと情けなく思いながら、自分の言葉が尻すぼみに消えていくのがいたたまれなかった。

「学習室に勉強する以外に用はない。頭がいいか悪いかは私が自分で決めることじゃない。それから、マスムラという生徒と関わりがあるのなら、他人事にいちいち首を突っ込まないように一年女子寮寮長が言っていたと伝えてくれ」

 椿の返事は端的だった。るうが聞き返せたのは最後のところについてだけだ。

「マッスーに? ええっと」

「彼女は面白半分に人の噂を集めて回っている。ただの好奇心で個人的な情報を調べ、言い触らすのはよくない」

「マッスー、椿ちゃんのところにも来たの?」

「来た。まともに取り合うだけ時間の無駄だった」

 そう言うと椿はるうに背を向け、机の上に勉強道具を広げ始めた。

「そ、そうかな……マッスー、すっごく物知りなんだよ……」

 控えめなるうの言葉も、聞こえない振りで流される。

「……あのね、今日はね、マッスーとても優しかったんだよ。あたしとみーちゃんとマッスーで剣道部の見学に行ったの。でも、みーちゃんが喧嘩して、道場のお掃除しなくちゃいけなくて……あ、剣道部のね、部長さんがね、そうしろって言ってて……マッスーは手伝っちゃいけなかったんだけど、部長さんたちがいなくなったあと、みーちゃんのこと手伝ってあげてたんだよ。あたしもちょこっとだけど、雑巾がけしたんだ。だからね……」

 るうはぎこちなく笑った。しかし、椿は横を向いただけで他に何の反応も見せなかった。ひそめた眉が、そんなことどうだっていい、と突き放すような険を含んでいた。 

 そうなると、るうにはお手上げだった。今まで誰とでも良い友人、良い関係を築いてきたるうにとって、椿は全く勝手の違う、手の付けようのない難問のような相手だった。  同じ部屋で寝起きしているのに、どうしても気安くおはようと言うことができない。会話はなく、椿がその日どんな気持ちでいるのかるうにはちっとも分からなかったし、また椿も、るうのことなど眼中にもないのだろう。

 そう思うと、悲しくなった。今だって椿はるうの目の前にいるというのに、るうはその相手のことを何一つ分かってやれていないのだ。

 何もできないという無力感ほど、るうを苦しめるものはなかった。

 どうしよう。

 沈黙が二人の間を満たした。椿が呟く。

「……喧嘩だと? 霧島がか」

「え……あ、うん」

「相手は」

「新田君っていう……みーちゃんとは幼馴染なんだって」

 瞬間、椿は誰かから不意打ちを食らったかのように顔を強張らせた。幼馴染、とそれだけを繰り返す。

「ふん……この総合魔法学園に入学した身分で、仲良しのお友だちとじゃれ合っているわけか。随分と気楽なものだな。明日のテストも余裕だとみえる」

 るうの肩が思わずびくついた。椿の声があまりにも低く、掠れていたからだ。

「霧島がどういう考えで入学してきたのか知らないが……この学園は普通の高校とは違うんだ。お友達と楽しく遊びながら勉強できるようなところじゃない。そんな甘いところじゃない……」

「そ、そんな言い方……ねえ椿ちゃん、」

「私は理由もなくこんなことを言っているんじゃないぞ、吹雪るう」

 椿は立ち上がった。しかし、るうに向き合うことはない。

「今ではもう、人間の生活に魔力は欠かせない。その魔力を魔窟から回収するのが『魔法士』の役目だ。命がけの仕事だ。……私はその魔法士になるためにこの学園に来た」

 更に声を低めて、椿は言った。

「……人の命が左右されることを、私たちはこれから学ぼうとしている。なのにどうして、喧嘩なんて暢気にやっていられるんだ? 魔法士になるために――人の役に立つために、ここに来たんじゃないのか……」

 るうは答えられなかった。何のためにここにいるんだ? 椿の問いはるうの胸にまっすぐ飛び込んできた。

 しかし、るうは答えられなかった。

 

 

 入試の繰り返しのようなクラス分けテストの結果は、それが終わった翌日の朝、集会室の掲示板に張り出された。この時ばかりは人工妖精たちが寮の部屋まで押しかけてきて、必ず結果を見るようにと生徒たちを階下へ引っ張っていった。花車の部屋も例外ではない。枕元でりんりんとうるさく音を立てる人工妖精に叩き起こされた瑞樹は、欠伸を噛み殺しながら仕切りのカーテン越しにるうに声をかけた。

「おーい、るう、起きてるか? 下にクラス分けの結果見に行けだって」

 しかし返事はなく、不思議に思った瑞樹はカーテンを捲った。中のベッドには誰もいない。綺麗に折り畳まれた布団の上に、これまたきっちりと畳まれたるうの寝間着が置いてあった。

「あっれー……るうの奴、もう出て行ったのか?」

 それなら自分に一声かけてくれてもいいのに、と瑞樹は人工妖精に向かって尋ねた。

「なあ、るうのとこにも妖精来てたんだろ。あいつ、いつ出てったんだ?」

『はい、霧島瑞樹様。ワタシ共はそのようなご質問にお答えすることができません』

「はあ?」

 拍子抜けした瑞樹は人工妖精をまじまじと見つめた。いつもとは違い、丸い鈴を背中に背負っている。

『ワタシ共は生徒の皆様のプライベートに関わる一切の出来事について口外を許可されておりません。先程の霧島瑞樹様のご質問は、吹雪るう様のプライベートに関わる事項だと判断いたしましたので、お答えすることができません』

「へー……あ、そう。よくできてんなあ。まあ、別に答えなくてもいいけどさ」

 瑞樹は自分のベッドに戻って着替えを始めた。人工妖精はくるくると宙を舞いながら瑞樹を待っている。こういうことか、と合点がいった。

「妖精に着替え中の姿を見られても問題ないってわけね。成程なあ。……で、その鈴は何なの?」

『はい、霧島瑞樹様。この鈴は霧島瑞樹様を起こして差し上げるためのものです』

「うん、すげー耳元でうるさかったわ。もしかしてそれ、私専用だったりする?」

『はい、霧島瑞樹様。小林魔導師からのご指示によるものです』

「やっぱりな!!」

 新田との軽く揉めたせいで魔導師たちに目をつけられてしまったらしい。瑞樹はそそくさと身嗜みを整えて花車の部屋を出た。  一階の集会室には人だかりができていた。普通の女子より背の高い瑞樹は後ろのほうから掲示板を覗く。

 自分の名前を見つける前に、瑞樹の左腕に誰かの腕が巻き付いた。るうだった。

「おはよ、みーちゃん」

「うん、おはよ。るう、お前どこのクラスだった?」

「あたしはやっぱりCクラスだった。みーちゃんは?」

 るうと腕を組みながら、瑞樹はもう一度掲示板に目をやった。クラス分けテストでの成績によってAクラス、Bクラス、Cクラスに生徒たちは振り分けられる。よそ見せず、Cクラスのところを確かめた。

「あった。私もCクラスだわ」

「ほんと? よかったあ、みーちゃんと一緒だ」

 るうは嬉しそうに笑った。

「あとは……お、マッスーもCみたいだな。下の名前がなんでか書かれてないけど。あいつのフルネーム、そういえば聞いたことないな」

「あたしも知らない。マスムラ……なんだっけ?」

 二人が首を捻ったとき、集会室の振り子時計がコーケコッコー、と鶏の鳴き声で時を告げた。すると、るうと瑞樹の人工妖精が『吹雪るう様』『霧島瑞樹様』と全く同時に口を開いた。そのあとの言葉もぴったりと声が揃っている。

『今日から三つのクラスに分かれて授業が始まります。ホームルームは午前九時からです。遅れないようご準備ください』

 るうと瑞樹の人工妖精だけでなく、周りにいる女子生徒たちの人工妖精も一斉に同じことを同時に喋ったので、まるで拡声器で怒鳴られたようだった。

 瑞樹は片耳を押さえる。

「う……うるせーなこれ! どんな奇跡起こしてんだ!」

 人工妖精たちは取り合わず、翅を震わせて引き上げていった。

「す……すごい音だったね」

 るうも耳を押さえながら言う。あれだけの音量で伝言されれば、そうそう忘れることはない。

「ったく……授業が九時からだっけ? その前に飯行こうぜ、るう」

「うん!」

 るうは腕を解いて歩き出そうとした。すると、瑞樹の左手がするりと伸びてきてるうの右手を握った。

「みーちゃん?」

「ん? 何だよ、るう。腹減ってないの?」

「ううん、そうじゃなくて……」

 繋いだ手を見下ろしたるうは、ぎゅ、と力強く握り返した。昔は姉や妹がこうして傍にいてくれたものだった。

 そんなことは露知らず、瑞樹はるうと歩調を合わせて歩き始める。

「そういえば人工妖精の奴らは何も言わなかったけど、担任ってもう決まってんのかなあ。私北原先生がいいなー、楽そうだし」

「あ、さっき聞いたけど、Cクラスは小林先生なんだって。北原先生は確かAクラスの担任だったかなあ」

「げ。小林先生かよ。下手な真似したらぶっ飛ばされそうだな」

 鈴のこともあるし、と瑞樹は頭を掻く。

 寮を出ると、暖かな風が吹いていた。春の陽気である。るうの足元には入学式の日に見た桜の花びらが数枚、可憐な様子で落ちていた。             

 

                      

05← メイン →07