第二章 交流
17
扉が閉まると同時に、足元から、がこん、と錠が外れるような音がした。
なんだろう?
るうは暗闇の中で床に目を落とす。
ふいに、床下から一筋の光が差し込んできた。小さな光だ。るうの掌で覆ってしまえるほど小さな光は、するすると移動して床に丸い円を描いた。
するとその円は動きだし、地下へと続く石の階段が姿を現した。
るうは身を屈めて、階段がどこに通じているのか確かめようとした。
地下に下る道は今いる場所よりももっと暗い。
どうしよう……。
この階段を下るべきだということは分かる。
だが、墨を流し込んだような真っ黒い穴の中に、何か潜んでいるような気がしてならなかった。
床に座り込み、足を伸ばして階段の位置をさぐる。硬い石はひんやりと湿っていた。
体を縮こめて、ずり落ちるようにして一段一段下っていく。立って歩くなどできそうもない。眩暈を起こしそうな暗闇に引きずり込まれまいと、手鏡を持つ右手に力を込めた。
と、下の段に伸ばしていた足が、ぬるりとした何かを踏んだ。
「えっ……きゃあ!」
踏ん張れない。落ちる。
あちこちに体をぶつけながら、るうは地下へ滑り落ちていった。
「あう。久しぶりにやっちゃった……」
階段の一番下にうずくまり、るうはべそをかいていた。
痛い。体中に青痣ができた気がする。階段から転げ落ちるなんて、小学生以来の出来事だ。
「と、思ったけど、そうでもないなあ……」
入学式の日にも階段で転んで怪我をした。あちらは確か、大理石の階段だったが。
怪我を手当てしようと保健室へ行き、そしてそこで瑞樹と出会ったのだ。
――みーちゃん、どうしてるかな。もう標本見つけたかな。
このままここで待っていたら、瑞樹はるうを探しに来てくれるだろうか。
るうは少し考え、それから手探りで手鏡をなぞった。
よかった。割れてない。
ほっと息をつき、立ち上がる。
大丈夫、まだいける。あまり自慢できることでもないが、このぐらいの痛みには慣れっこだ。
そろそろと壁伝いに移動する。さっきの階段とは雰囲気の異なった場所にいるのはなんとなく分かった。空気がじっとりとしている。足元も、苔か何かが生えているようだ。さっき階段で踏んだものと同じ感触がする。
「これ、水の匂い……?」
頼りにしていた壁が、そこで途切れた。小さく呟いたはずのるうの声が辺りに響き渡る。
すると、それに反応したのか、豆粒のような明かりが上のほうにいくつか灯った。
まるで、理科室のような場所だった。五十人が一度に授業を受けられるような広い空間の真ん中に、四角い机と椅子がぽつんと置かれている。そして床には、机を取り囲むように小、中、大のビーカーがずらりと並んでいて、それらを蹴飛ばさずに歩くのは難しいように見えた。
るうはビーカーの一群に歩み寄り、そのうちの一つを手に取った。中には何か、きらきらした粒のようなものが入っている。
「わあ、綺麗。これも魔窟から採集したものなのかな」
他のビーカーにも様々なものが入っていた。透明な水、赤い水、黒い小石、乳白色の砂。
るうはそれらを一つ一つ眺めていきながら、ふと気づいた。
一体、どれがあたしの手鏡の材料になるんだろう。
「あれ? そもそも鏡って、どうやって作るんだっけ?」
るうは数十ものビーカーを見下ろしながら、途方に暮れた。
一方、るうと別れたあとの瑞樹は、何故かジャングルの中を歩いていた。
剣の扉を潜り、一本道を進んでいたら、急に周りの様子が変わったのだ。立っているだけで汗をかくほど気温が上がり、足元では木々の根が絡み合う。頭上からは、太陽と同じくらい明るい光が降ってくる。
明るくなったのはいい。
だが、暑い。
「何なんだ一体。暑いし、じめじめしてるし、歩きづらいし。本当に建物の中なのかよ」
木刀で邪魔な枝葉を払いのけながら、とにかく前へ進む。
ちらりと目線を上げ、確認するのは、木々の幹に取り付けられている小さな白い名札だ。
瑞樹は樫の木を探していた。木刀の材料といえば、それぐらいしか思いつかない。
「でもなー、ジャングルに樫って生えてんのかなー」
瑞樹は太い幹と枝を持つ大木を見つけると、あっという間に上まで登っていった。地上約十メートルの高さから、辺りの様子を探る。
木々の緑が一面に広がっている。豊かな森そのものだ。
しかし、動物の気配はなく、まるで実物大の箱庭を見ているような、奇妙な景色だった。
「どうすっかな……」
この広さの森をしらみつぶしに探し回る時間はない。瑞樹は大木を下りて、使い魔を呼び出した。
黒い狼が瑞樹の影から飛び出してくる。
「弦。周囲の様子を探ってくれ」
命じられた弦は、一度瑞樹の足にすりより、それから森の奥へと駆け出していった。
瑞樹は木々の根元に腰を下ろして待つことにした。
ふと、頭に浮かんだのはるうのことだ。一人でも大丈夫だと言っていたが……やはり気になる。少しどじなところがあるから、今頃転んだりしてべそをかいていないだろうか……。
口の端から笑いが漏れた。
まあ、なんとかやっているだろう。どじでも、諦めは悪いやつだ。
弦が戻ってきて、少し離れたところから瑞樹を待っている。
そのあとを追いかけ、辿りついた先にあったのは、切り立った崖だった。
そしてその崖に、巨大な角材が一本立てかけてあった。
「でかいな……さっき、こんなんあったか?」
木に登った時には、崖も角材も見当たらなかった。こんなに大きなものならば、見落としたということはないはずだが。
立てかけられた角材と、崖の間につくられた三角形の空間の中に、瑞樹は入っていき、頭上を見上げた。ちょうど真上に見えるのが角材の底面になる。そこから、つららのように根っこが垂れ下がっていた。地面に届くほど長く伸びているものもある。
その内の一本に手をかけると、いとも簡単に折れてしまう。木刀と測ったように同じ長さ、同じ太さ、同じ重さをしていた。
「弦。どう思う?」
折ったばかりの根っこを弦に向ける。弦は鼻先を根っこに寄せて匂いを嗅いだあと、瑞樹を見上げてぱたりと一度尾を振った。
瑞樹は笑った。
「標本の回収はこれで完了だな。何の木かは知らないけど、思っていたより、あっさり見つかったな」
弦の頭をがしがしと撫でる。
「お疲れ、弦。助かったよ。あとはこの根っこ持って戻るだけだ」
弦は気持ちよさそうに目を細めた。
しかし次の瞬間、かっと目を見開いて唸り声を上げた。
「弦?」
いきなりどうした、と続けようとして瑞樹は口を噤んだ。弦が感じている異変が、ぴりぴりと瑞樹の肌に伝わってきた。
何か音がする。地響きのような、大量の水のうねりのような。
それは地下から聞こえてきていた。