第二章 交流

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 瑞樹が片手を足元の影に置く。すると、真っ黒い一枚板のように横たわっていた影が細かに震え、その水紋の中心からするりと狼の鼻先が突き出てきた。影は瞬く間に一匹の狼を作り出すと、そのあとは全く沈黙する。

 瑞樹は気を静めるために目を閉じて深呼吸した。集中が途切れてしまえば、使い魔も姿を保てず、霧散してしまう。僅かな呼吸音が部屋に繰り返し浸み込んでいく。

 しばらくして、瑞樹は目を開けた。

「よう」

 使い魔の弦は、それに答えるように一度だけ尾を振った。使役者の瑞樹と違って、大人しい気性の狼だ。

「どうよ、最近は。中々楽しく過ごしてるよな」

 そう言ってソファに身を沈める。

 使い魔は使役者自身の魔力から生まれるものだ。だから、弦が瑞樹の問いかけに答えることはない。それでもついつい声をかけてしまう。魔力の塊でしかない弦にも、瑞樹のものでない、弦だけの心というものがあって、時折それが外に表れているような気がするからだ。

 勿論、それがただの気のせいだということを瑞樹は承知している。

 

 ――とたたた。

 

 小さな足音。弦の耳が玄関のドアのほうに向く。

「るうが戻ってきたな」

 同時に、元気よくドアが開いた。

「ただいま!」

「おっかえりー。遅かったな」

「うん、お風呂、人が多かったんだあ」

 湯上りのほかほかとした空気を胸いっぱいに吸い込み、るうはご機嫌だった。

「私が行ったときはまだ空いてたけど」

「ほんと? じゃあ次はみーちゃんと一緒に行くよ」

 と、瑞樹に寄り添う弦を見て「弦ちゃん来てたんだ!」と嬉しそうな声を上げる。

「正確には『来た』んじゃなくて、いつも『いる』んだけどな」

「そうなの? よしよし、弦ちゃん撫でさせてねー」

 弦の頭を撫でたり、顎を擽ったりしているるうに、瑞樹はタオルを差し出した。

「おいるう、先に髪乾かさないと風邪ひいちゃうぞ。ほら、これで拭いて」

「ありがとう」

「あ、というか、こっちに座ってみろよ」

 言われるがままに瑞樹の前に移動する。床に腰を下ろした途端、上からばふっとタオルが降ってきた。

「わっ! 何?」

「前向いとけ。私が拭いてやるよ」

 わしわし、と髪を掻き混ぜられて、るうはくすぐったい気持ちになる。

「……なんかこれ恥ずかしい……」

「なんだよ、家で母ちゃんとかにやってもらわなかった?」

「やってもらったけど。あたし妹いるから、そんなにはしてもらってないの」

 瑞樹が笑う。

「ほんとかよ? 意外だな」

「お姉ちゃんらしくしなきゃって思ってたんだもん。うちの妹かわいいんだよね」

 髪を拭いてもらいながら、るうは弦を手招きして膝に乗せた。といっても、弦の体は普通の犬よりも大きいので膝枕ぐらいしかできない。

「妹ねえ……私は末っ子だから、ちょっと憧れるな」

「今度写真見せてあげるね!」

 るうの髪が終わると、瑞樹は弦を連れてベランダに出た。籐椅子に座ってブラシを片手に弦を引き寄せる。

「みーちゃん、紅茶飲まない?」

 折角だから、と盆にティーポットとカップを載せて、るうもベランダに出てきた。さすがに高席出身のお嬢様だ。扱う手つきに淀みがない。

 カップから立ち昇る湯気が夜風に浚われていくのを、ブロー中の弦が見るともなしに見ていた。

「弦ちゃん、気持ちよさそうだねえ」

 るうが籐椅子に座りながら言う。

「お風呂入って体はぽかぽかだし、みーちゃんには頭拭いてもらったし、紅茶はおいしいし。あたし、今信じられないぐらい幸せだなあ」

「最後のは自画自賛? まあ、るうの紅茶はうまいけどよ」

 瑞樹は紅茶を一口飲んで笑う。

「あたし、入学前はほんとに緊張してたからなあ……ちゃんと友達できるかな、とか勉強についていけるかな、とか。でも、実際に入学してみると、すっごく楽しいことばかりだった」

「あれだろ、よく言うあれ。なんつったっけ?」

「あれって?」

「あー、あー……案ずるがよし? なんか違うな……」

「もしかして、案ずるより生むが易しのこと?」

 そうそれ!と瑞樹は膝を打った。

「あはは、そうだね、ほんとにそうだったかも。いろいろ心配しているより、思い切ってやってみたら、すんなりうまくいった感じ」

 るうは湯気をかき消すつもりで、ふう、と息を吹いた。

「みーちゃんは?」

「ん?」

「学校楽しい? あたしはみーちゃんと友達になれてとっても楽しいよ」

 瑞樹はきょとんとした表情を見せ、次いで大声で笑いだした。自分の正直な告白を馬鹿にされたのかと思ったるうは、たちまち頬を赤くした。

「みーちゃんの馬鹿!」

「あっははは、わ、悪い」

 息も絶え絶えの様子で謝られても意味がない。るうはそっぽを向いた。

「いやごめん。そういえばるうって、そういうことはっきり言っちゃう奴だったなと思って」

「だからって笑うことないのに!」

「ごめん。怒んなよるう。私もるうが友達で嬉しいよ……ふはっ」

 笑いを収めきれずに瑞樹は体を震わせている。しばらくして、ようやく笑いの発作から立ち直り、顔を上げた。

「いや、マジな話で」

「……本当かなあー」

 ちらりと横目で瑞樹を見る。一言謝れば済むと思っていたのだろう、ふて腐れたままのるうに、瑞樹が焦りを露わにした。

 中々珍しい瑞樹の様子に、もう少しいじけとこうかな、と小意地の悪いことを考えたときだった。べろん、と熱くて柔らかいものがるうの頬に触れた。

「きゃあ! な、何?」

 見ると、弦がるうの膝に両足をかけて乗り上がろうとしていた。熱いと感じたのはその弦の舌だ。べろべろべろ、と顔中を舐められる。

「わあっ、弦ちゃん? どうしたの、急に」

「ほら、弦も機嫌直せってさ」

 瑞樹が弦の首根っこを掴んで後ろに下がらせる。るうは弾けるように笑い出した。

「あははっ、分かったよ弦ちゃん。あたしもう怒ってないよ。ありがとね」

「おー、そりゃよかったよかった」

 瑞樹もほっとしたのか、胡坐を掻いて腰を据えると、カップに残っていた紅茶を一気に飲み干した。

「うまい! るう、もう一杯頼む!」

「はーい。しょうがないなあ」

 そう言って笑うと、るうは紅茶を淹れなおすために立ち上がった。

 

 

 

 

 数日後、Cクラスのホームルームの時間に一枚の紙が配られた。小林魔導師は黒板の前に立ち、その紙を掲げてみせる。

「レクリエーションも明日に迫りました」

 そして鋭く教室内を見渡す。生徒たちの中には少し浮かれた面持ちの者もいる。

 るうと瑞樹は隣り合わせの席に座っていた。

「資料をご覧ください。これはこの学園の見取り図です。印がついているのがお分かりになるでしょうか」

 見取り図には朱色の漢数字が三か所に押印してあった。

 

 一の文字は、資料保管庫。

 二の文字は、庭園。

 三の文字は、職員室。

 

「何だこれ?」

 瑞樹は目を細めて見取り図を眺めた。るうも手元の紙をじっと見つめる。

「番号がふってあるね。一と二と三」

「これらの数字は三つのチェックポイントを示しています」

 小林魔導師はこそこそと話し合う二人に眉を吊り上げてみせた。

「わたくしが今から説明いたしますので、どうか皆さん、お静かに」

「すみませんっした」

 口ではそう言いつつも、瑞樹はこっそり舌を出す。

 

「今回のレクリエーションのテーマは――『発見』です」

 

 黒板には大きく『発見』の文字が書かれている。

「皆さんにはチームを組み、学園内に設置された三つのチェックポイントを巡っていただきます。チェックポイントには、各クラスの担任が一人ずつ待機しております。そこでは『発見』に関わる課題が出題されます。皆さんは三つの課題を全て熟さなければなりません」

 小林魔導師の白墨はすらすらと動き、三人の魔導師の名を書きだした。

「先生がたの魔法は課題の内容に大きく影響してきますので、そのつもりで。――第一チェックポイントは、わたくし小林が担当いたします。魔力傾向は道具系。道具系の魔法については、皆さん既に見たことがありますね?」

 何人かの生徒が頷く。

「つまり、わたくしの課題には道具系の魔法が関係しているということです」

「それって、私たちが道具系の魔法を使わないといけないようなものですか?」

 生徒の問いに「いいえ、そうではありません」ときびきび答える。

「一年生である皆さんに、魔法を使える方は多くありません。ですから、課題は魔法を使わなければ解けないというものではありません」

 それを聞いて、るうは密かに胸を撫で下ろす。Cクラスで魔法持ちなのは瑞樹だけだ。

「第二チェックポイントには、Bクラスの前原先生。魔力傾向は使役系です。そして、最後の第三チェックポイントをAクラスの北原先生が担当なさいます。能力系の魔力傾向をお持ちです」

 小林魔導師はどこからともなく指示棒を取り出し、それで黒板に書かれた北原魔導師の名前をかつかつと叩いた。

「ここで一つ忠告しておきますが、道具系、使役系、能力系の魔力傾向で最も特異な魔法と言えるのが能力系です。能力系の魔法は使用者ごとに異なり、道具系の道具や、使役系の使い魔のような型がありません。個人の性質を強く反映した魔法となっています。この点、皆さんには十分にご承知いただきたいと思います」

 瑞樹は唇を尖らせた。

「つまり……どういうこと?」

「りん君も言ってたよね。北原先生の魔法がレクリエーションに関わってくるって」

「ふうん、成程な。一番難しい課題ってことか」

 机に肘をつく。小林魔導師の睨みにはにこりと愛想笑いを返した。

「能力系の魔法は、予想ができないということです」

 またそれから、と続ける。

「始めに申しあげましたように、レクリエーションにはチームで参加していただきます。生徒同士の親睦を深めることが目的の一つです。チームは三人一組とし、なお且つ現在、寮で同室となっている生徒同士で組んでいただきます」

「げっ」

 思わず瑞樹は毒づいた。

「あのお、それってもしかして、ルームメイト同士でチームを組むってことっすかあ?」

「その通りです。それから霧島さん、もう少しきちんとした言葉づかいを心掛けてください」

「はーい……」

 首をすくめ、瑞樹は視線を横に滑らせた。るうと目が合う。

「これって、椿ちゃんも一緒のチームになるんだよね?」

「マジかよ……」

 るうの茶色の目がぱちりと瞬きした。

「このレクリエーションは皆さんに直接、先生がたの魔法を見ていただくことも考慮して企画しています。是非この機会を自身の糧にしてください」

 小林魔導師は最後にそう締めくくった。

 

 

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