第一章 入学
02
「さっそくやっちゃった……」
両膝の擦り傷を見下ろし、るうは溜息を吐いた。まさか入学初日からこんな有様だなんて、家族や爺やに知られたら何と言われるか。どじな自分に半ば腹を立てながら、るうは人工妖精に連れられて、一人保健室へと向かっていた。
『吹雪るう様、あちらが保健室になります』
人工妖精が指差した先に『保健室』と書かれたプレートが白い引き戸にさがっていた。いざ開こうと手をかけたとき、部屋の中から間延びした声が聞こえてきた。
「だからあ、わざとじゃないんですって。ほんとすみません」
女の子の声?
るうは戸から少し体を離した。普通に会話しているにしては大きな声だった。
「ちょっとした好奇心? まあそんな感じだったんですよ。そしたら何故かこうなっちゃいまして」
「そんな感じってどんな感じだ。全く、入学早々落ち着きのない奴だな。問題だぞ、これは」
若い男の声がそれに答えた。のらりくらりとした返事をする女子に向かって少々尖った声を出している。
問題、という単語が聞こえてきた時点で、るうは保健室からそっと踵を返していた。盗み聞きはよくないと思ってのことだったが、二人が何故か怒鳴り合うようにして話しているので距離をあけてもあまり意味がなかった。
「いやいや、先生なら元に戻せるでしょ。そう思ってここに連れてきたんですよ」
「あのな、その辺の使い魔とはわけが違うんだ。そう簡単にはできない。そもそも、新入生がどうして習ってもいない魔法を使えるんだ?」
「そりゃあ、なんとなくできるかなって思って」
「なんとなくで魔法を扱うんじゃない!」
男が一喝する。るうは身を竦ませた。
「はあいすみません。以後気をつけまーす」
「あのなあ……」
女子生徒は怯んだ様子がない。男は「すぐ戻るからここで待っているように!」と言い残すと戸を開けて外へ出てきた。白衣を着ている。るうの横を、急ぎ足で駆け去っていった。
るうは、声のしなくなった保健室をこわごわと覗き込んだ。
「し、失礼します……――あれ?」
部屋の中には誰もいなかった。
さっき出ていった男の――おそらく保険医の仕事用の机が正面に一つ。仕切用のカーテンが付いたベッドが四台。薬瓶などが並んだ棚はるうのすぐ左横に置かれている。部屋の真ん中には長机とパイプ椅子。壁際には木製の梯子がたてかけてあった。
それ以外はいたって普通の保健室の様子だったが、しかし女子の声の主は見当たらない。
るうはベッドの中身を一つ一つ確かめてみた。やっぱり誰もいない。
おかしい。だってあの先生は誰か女の子と話してたんだから――と首を捻っていたとき、
「先生なら今出てったぜ」
何かを面白がっているような、押し殺した笑いを含んだ声がした。
「え? あっ……」
顔を上げると、ようやく探していたものを見つけることができた。
保健室の天井に、屋根裏部屋があった。梁に板をわたしただけの狭い空間に、一人の女子生徒が片膝を抱えてこちらを見下ろしていた。
短い髪の毛があちらこちらへと跳ねている。微かな燐光がその体の輪郭から発せられているように見えた。人工妖精と同じ光だ。
「あ、あの」
るうは吃りながらも尋ねた。
「あなたも妖精なんですか?」
「――はあ?」
自分の問いがどんなにとんちんかんな、突拍子のない、的を外したものだったのかるうが気づいたのは、女子生徒が腹を抱えて大笑いしているのを見てからだった。
「あー笑った。ここしばらくないぐらいに笑った。あー……駄目だ、腹筋がまだびくびくしてる」
屋根裏部屋でどうにか笑いをおさめようと四苦八苦しているのは、るうと同じ新入生の霧島瑞樹だ。
その周りには、小さな鳥小屋のような家がいくつも密集している。何か鉱物を削って作られたものだ。人工妖精の翅の光が鉱物に反射してきらきらと幻想的に光っている。
瑞樹が言うには、文字通り人工妖精が翅を休めるための家なのだそうだ。瑞樹の体が光って見えたのも、仕事を終えた人工妖精たちが辺りを飛び回っていたからに過ぎない。落ち着いて考えてみれば分かることだった。
「あんた、吹雪るうだっけ? 吹雪家って、あの『高席』の吹雪だろ。お金持ちのお嬢様は言うことが違うねえ」
「い、家は関係ないもん! そんなに笑わなくったっていいじゃない!」
「はは、ごめんごめん。だって人間と妖精見間違える奴がいるとは……」
そこでまた吹き出して笑っている。るうは顔を赤くした。
「ねえ、それ、なあに?」
話を逸らそうとるうが指差したのは、瑞樹が右手に握っているボールのようなものだった。仄かに白く瞬いている。
ああこれ、と瑞樹が軽く投げ上げてみせた。
「人工妖精だよ」
「……ええっ?」
「正確には、人工妖精の材料となる魔力の塊。あんたの人工妖精も、元々こういう形をしてるんだよ」
るうは目を白黒させながら瑞樹のボールと自分の人工妖精とを見比べた。とても同じものには思えない。
「もしかして……さっき元に戻すとか言ってたの、そのボールのことだったの?」
「何だ、聞いてた?」
瑞樹は立てた片膝に顎を乗せる。
「うん、ちょっとだけ……あなた、新入生なのにもう魔法が使えるの?」
「まあね。実家が剣術道場なもんだから、魔法士候補の門下生が出入りしてるのを見てたら自然とね。――見てみる?」
手招きされるまま、るうは梯子を使って屋根裏部屋へと上がっていった。
人工妖精の家に囲まれた瑞樹は、胡坐をかいてるうを待っていた。下の保健室よりも薄暗い。人工妖精の光がふわりふわりと頬を掠めていった。
「あんた、『使い魔』を見たことは?」
「家に来たお客さんが連れてたのを何度か……」
「なら話が早い。私が使ってんのは、その使い魔の魔法なんだ」
そう言うと瑞樹は床に手を置いた。すると、瑞樹の影が見る間に波立ち、ぐにゃりと伸び上って形を変えた。現れたのは、黒い毛並みを持った四足の獣だ。
瑞樹が何か言う前に、るうは歓声を上げて身を乗り出した。
「すごい! かっこいい! 犬の使い魔なんだね!」
「いや、一応狼なんだけど……名前は弦。触ってもいいよ」
弦は、頭を撫でられても顎を擽られても大人しくしていた。人工妖精が魔力の塊から造られているように、弦も瑞樹の魔力によって形作られている。瑞樹の年齢で、ここまで使い魔の姿をはっきりと現せるのは珍しいことだった。
るうは弦の目を覗き込んだ。
とても優しそうな目だ。
「ほんとに綺麗なこだね。もふもふの毛並み、気持ちいいなあ」
瑞樹がぐっと胸を張る。
「ま、私の使い魔だからな。 将来は魔法士になって、こいつとばりばり働くつもりだし!」
よーしよし、と使い魔の頭を撫でる瑞樹は楽しげだ。るうもその光景を微笑ましく眺めていたが、ふと「あたしも使い魔を使えるようになるかなあ?」と首を傾げた。
「そりゃあ、素質があればできるだろ。でも、どういう魔法に向いてるかは人それぞれだからなあ。そういうのって遺伝するっていうけど」
「あたし、あんまり家族に似てないからなあ……全然魔法のこと知らないし。だから瑞樹ちゃんのこと、すごいって思う」
「えー、そうかあ?」
「うん、そうだよ!」
るうは力強く頷いた。弦を相棒に、魔法士になる。そうした目標をはっきりと口に出せる瑞樹を羨ましいと思った。
この学園で頑張れば、自分も瑞樹のようになれるかもしれない。
胸の奥で、そんな思いがじわりと湧き出るのを感じた。
「あ、こら霧島! また勝手に魔法使ったのか!」
戻ってきた保険医が屋根裏部屋を見上げて叫んだ。
「何で大人しくしていられないんだ。そんな風に気軽に魔法を扱っていると、今に困ったことになるぞ。さっさと下りてこい」
「げ、まずい。はーい、すみませーん。今行きまーす」
瑞樹はるうに梯子を使うように促すと、自分は一気に屋根裏部屋から飛び下りた。すぐさま弦が主人の後を追う。瑞樹は弦を脇に抱え込むようにして床に着地した。
「よし完璧! サンキュー弦。戻っていいぞ」
ぱちんと指を鳴らすと、弦は瑞樹の影の中に戻っていった。
「じゃ、先生こいつお願いします。私はもう戻るんで。あ、あとそっちの子の怪我も診てやってくださいねー」
「おい霧島」
「んじゃ、失礼しました!」
元人工妖精だったボールを保険医に渡すと、瑞樹はさっさと出口に向かった。やっと上から下りてきたるうは、声をかけようとした矢先に梯子に足をぶつけてたたらを踏む。そういえば怪我をしていたんだった、と今更ながら思い出した。
「あ、あの、瑞樹ちゃん、」
「そうだ、忘れてた」
何やら制服のポケットをごそごそと探り、瑞樹が振り返った。るうににっこりと笑いかける。
「また後でな、るう。寮でもよろしくな!」
「えっ?」
瑞樹の手に握られていたのは、まぎれもなく白色のガーベラだった。